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多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』 レビュー

わたしは境界を越えたいのではなくて、境界の住人になりたいのだ

題名の「エクソフォニー」というこの聞きなれない言葉の意味するところは、著者の言葉を借りるなら次のようなことになる。

  • 外国語で書くということに対して、「移民文学」や「クレオール文学」などの言葉よりも、「エクソフォニー」はもっと広い意味で、母語の外に出た状態一般を指す。
  • 「自分を包んでいる(縛っている)母語の世界の外にどうやって出るか? 出たらどうなるか?」という創作の場からの好奇心にあふれた冒険的な発想が「エクソフォン文学」だ

著者は日本語を母語とし、ドイツ語で作家活動を行っているが、彼女の目指すところは単にドイツ人のドイツ語を真似ることでも、ドイツ人が考える模範的なドイツ語を書くことでもない。日本語とドイツ語という二つの言語の間に生きて、それぞれを突き詰めていくことでしか見えてこない世界で格闘し、また喜びも感じているのだろう。

以下の文章を読むと、著者が日々二つの言語の間で、それぞれの言語に情熱を注ぎ、大切に育ていることを感じられる。

何もしないでいると、日本語が歪み、ドイツ語がほつれてくる危機感を絶えず感じながら生きている。

~ 略 ~

その代わり、毎日両方の言語を意識的かつ情熱的に耕していると、相互刺激のおかげで、どちらの言語も、単言語時代とは比較にならない精密さと表現力を獲得していくことが分かった。

日本語を母語とする日本人であるからこそ、そして、二つの言語の間「エクソフォニー」にいるからこそ、書けるドイツ語文学があると信じているのだろう。

私自身は文学者でも言語学者でもない、一般的に言えばそういったものとは無縁の世界に生きているが、12歳のころ初めて学校で英語という日本語ではない言語を習ったころから語学が、言語というものが好きであった。複数の言語を学ぶことでお互いの言葉が補完され熟成されていくのを感じたりするところなど、共感できる内容も多くあった。 この作品を読む時間は、言葉を知り、言葉と共に生きることに喜びを感じられる幸せな時間だった。

最後に、この作品の中で私が最も好きな文章を引用させていただく。

ここは絶対にハンブルクではありえない、たった一時間飛行機に乗って来ただけで別世界に来ることができるのだ、と驚いた。英語など縁のない世界。みんなフランス語をしゃべっている。それをベルナー・バヌンが訳してくれるが、二回に一回は困った顔をしている。言葉としては訳せるけれども、そんなことはドイツ語で言ったらとても変に聞こえるから、と断ってから、注意深く訳し始める。彼の躊躇いがわたしには味わい深かった。わたしは境界を越えたいのではなくて、境界の住人になりたいのだ、とも思った。だから、境界を実感できる躊躇いの瞬間に言葉そのもの以上に何か重要なものを感じる。